久々の機内はこの時期修学旅行と重なっていて活気があった。僕の真後ろからはほとんど中学生の大群で占められていた。みんな楽しそうで僕はこういう光景は好きだ。空港内でも様々な中学校(高校にしては幼すぎる)が縦列で停滞していてたまに通路が塞がれることもあるがそれも仕方なく微笑ましいと思っている。僕の座席の前には30代であろうお母さんと4歳の男の子、3歳の男の子の3人が座っている。4歳の男の子といっても5歳にしては少し幼いかなという程度で5歳かも知れない。3歳の子はまだ2歳になったばかりのように幼く見えた。僕はこの辺りの年齢はさっぱり解らない。でもこの子たちは気圧が変わるのが大丈夫かな、こんなに小さいのに飛行機乗せてもらっていいなとも思った。僕が初めて飛行機に乗ったのは22歳の時だった。座席と座席の間から見えるお兄ちゃんの顔は無垢だ。かわいい子だ。窓の外、離陸して晴れた青い空と雲の上を飛んでいる頃、お兄ちゃんは窓の外を興味深く覗いている。空を飛んでいることは理解しているのだろう。弟の方は解っていないように思う。それほどに幼い。でも兄弟喧嘩を始めるでなく、母親に叱られることなくおとなしく座っている。二人ともとても行儀がいい。気圧変化で僕が唾を飲み込んだ時も泣き出すことなく普通にしていたので問題は無かったのだろう。特に弟君には感心だ。普通泣き出すよ。
ほどなく目的地に到着し中学生たちがざわつく中、ギリギリまで読んでいた本を仕舞おうと前の座席の下に突っ込んでいた青い革リュックを取り出して本を片付けた。幸い真後ろで待機している中学生軍団も動き出してはいない。そしてその時なぜか違和感を感じてリュックを見直した。なにかリュックの全体を通じて表面に濡れた跡がある。ここでついた跡なのか、なんらかの僕の過失で機上前についた跡なのか、それだったら今着ている服は大丈夫なのか。確認する為に床を右手の中指で触れてみた。ねっとりと濡れている。水ではない。粘りがある。もう一度触る。粘着性はやはりあり乾きかけでもある。匂いは・・・、ワインの香りと一口飲んだだけでほぼ産地を当てることができる僕の鼻と舌である。アップルジュースで間違いない。確かにそういえばCAさんが提供していたジュースはアップル一択であった。一言だけ言わせて頂きますとこの件は自慢して言う程の事ではないってことは自覚しておりますので頭は大丈夫です。
全体的にベトベトになっていてどうしようもないカバンは何とかしなくちゃいけないのでCAの方に向かって手を挙げた。ビジネスクラスでは当然ないけれど後方地帯は中学生に占領されているので僕もほどなく前方に追いやられていた。声を出せば会話できる距離ではあったが手を挙げた。全員がもう立っている状態だが歩き出してはいないその時、別の若いCAが代わりに僕の席にどうされましたかと近づいて来た。
これ見て下さい。濡れている。そして床も濡れている。すいませんが何か拭くものはないでしょうか。
ああ、濡れていますね、本当に申し訳ございません。
ごく普通の受け答えのあと、僕の所に来た若いCAはその僕が手を上げて合図を送ったCAに報告に行ったのだ。報告もいいけど早くタオルかなんか持って来いやと思っていると、ぼちぼち停滞していた人達がが動き出した。そしてあろうことかチーフらしきCAが僕の前に座っていた家族をつかまえた。想定すべき最も嫌な予感がした。二人の男の子たちには少し離れた所に父親がいた。4人家族だった。父親と母親は何度か頭をさげ、それから僕の所まできてまた頭をさげて云われた。子供がジュースこぼしましてすいませんでしたと。
いえいえ。まったく気にしてませんので、お気になさらないで下さい。ただタオルを貸して欲しいってだけです。気にしていません。それでは良い旅を。
そういってる間にCAが本当にすいませんでしたとウエットタオルをいくつか持ってやってきた。
いや、いや、いや。僕はそんな事を言いたいんじゃない。そもそも前の子供がジュースをこぼしたとか知る必要もない。拭くものを持って来て欲しいと言っただけで謝罪なんか求めてもいない。そもそも子供が飲み物をこぼすくらいは当たり前。そんなことでいちいち文句をいう程心が狭いわけではない。そんなバカでもない。ただ濡れていてベトベトだから拭くものを貸して欲しいと言っただけだ。にも拘らずあなたの会社はまず責任回避の行動に出た。これが企業としていち客室乗務員の態度としてどうなんだってことなんだよ。これではあの家族には僕はクレーマーに見えてしまったじゃないか。拭きながら一緒に拭いてくれている若いCAに言った。
彼女は一生懸命拭いてくれながら配慮が足りずにすいませんでしたと何度も謝ってくれた。後ろに待機している中学生の目には絶対にただのクレーマーにしか見えなかっただろう。それほどに謝ってくれたがそんなのは望んでいない事だ。ちなみに僕を境にして渋滞が発生していたのは言うまでもない。
さらに・・・、
だいたいね、毎日TVやSNSで誰かが必ず不祥事や事件で叩かれている。子供社会にはいじめ、大人社会には同調圧力と差別、いがみあい、批判。そんなに叩いて意味あると思う?頭おかしいんじゃないの?そんな空気で満ちていると思わん?俺は謝罪させたいから言ったんじゃないのはもう解ってくれてるとは思う、この国を包むこの空気感こそがこの企業をも狂わせていると思うよ。会社の責任回避なんてもってのほか。叩かれるのを回避する行動なんかサービス業としてありえない。これも時代の流れではなんて言葉で済ましてはいけない。人々の心が荒んでいるから社会の空気が澱んでいてこんなバカなことがごく普通に起こるんだ。この国の現状は変な方向に進んでいるよ。これはフ〇テレビのバイ〇ングの影響が大きいとみる、坂〇忍の責任は大きいよ。お昼休みが腐る。君はどう思う?と言いたかったが我慢した。
歩き出し、前述のチーフらしきCAの所に来たとき「この対応は会社として間違ってると思います、事例として社内で問題提起して下さい」とだけ言った。また「申し訳ございませんでした」と頭を下げられた。中学生から見たら僕は最悪のオッサンにしか見えなかったに違いない。
空港内を出口に向かって歩いている。僕のたくさんある才能の一つとして先ほど述べた臭覚の他に極度の方向音痴というのがあり、僕は空港内をモノレールを探して彷徨っていた。歩いているとあろうことか目の前に現れたのは先程のご家族である。母親にはまた頭を下げられた。あんたも謝んなさいとお兄ちゃんも一緒に。
いえ、いえ、いえ、違う、違う。完全に誤解されていますからご説明させて頂きますけど、子供は悪さするのが仕事みたいなもんです。ましてやジュースをこぼすなんて当たり前でそんなもの笑って早よ拭きな、ですよ。僕は航空会社の対応がおかしいと言っただけで皆さんに対してはなんにも思っていません。むしろほがらかで羨ましいなと思ったぐらいです。ですからお気になさらないで下さい。これ以上頭を下げないで下さい。頭を下げるのは間違っています。ともかくお気になさらず楽しい良い旅でありますことを祈っています。といって別れた。
しかしよく考えてみた。離陸する時、後ろの中学生はかなりうるさかった。はしゃぎまくっていた時、こいつらうるさいなと思う自分がいて、いやいや、笑顔だ、無理に口角を上げた瞬間だった。CAに手を挙げた時の僕の顔がムッとしていたのかも知れないと思った。全然ムッともしていなかったが僕の顔にも責任がある可能性がある。
おしまい。