「Fukushima50」と「燃えよ剣」その1

 映画「Fkushima50」を観た。ちょっと予想と違ったが記録映画として観ておいた方がいいと思われる。僕は原発事故関連の書籍は読んでいる方だと思うが触れてはいないが知っておいて欲しい個所を書きたい。またここがこの映画の不満な点だ。

1 まず第一にこの事故は人災である。この福島の原発はアメリカのGE製(General Electric社製)のマーク1という原発で俗にいう沸騰水型原子炉、通称BWR(Boiling Water Reactor)という。マーク1。これは元々アメリカでも設計が古く地震や津波に弱いためアメリカ沿岸部でも採用が敬遠されているのはおろか、設計者も大型災害時の危険性を社員だった当時から会社に打ち上げていた代物である。欠陥炉とまでは言い切れないが極めて古い設計で現在では欠陥を否めないのも確かだ。一方でPWR(Pressurized Water Reactor)がある。読んで字のごとく加圧水型原子炉である。前者は東電、後者は関電が主に導入している。危険性においていろんな論点はあるが福島第一原発がPWRであったならこの事故は無かったと考えられる。一部にある東電がなぜ欠陥炉を買わされたのかというアメリカへの忖度・圧力説もあるが購入当時はGEですら解らなかったのだろう。問題は古い原発を使い続けてもいいという法律の整備と設置の場所だ。例えば四国電力の伊方原発はPWRで瀬戸内海に面しているので大津波は南海トラフでも有り得ない。こういう場合は原発はリスクはもちろんあるが最善を尽くしているという観点から悪ではないと思う。福島第一の場合地震によって壊れたのではなく津波によって電源が消失したというのが主原因であることは明確にしておかなければいけない。チェルノブイリとは大きく異なる点である。

2 またしても朝日。事故発生直後に福島原発から大勢が我先に逃げたという朝日新聞の報道はのちに公表された「吉田調書」から捏造記事であったというのが明るみになったが映画では触れられていない。また「金目当てで全国から集まったとされた作業員」という報道も大半が嘘であるが映画では触れられていない。

原子力災害が始まって1か月、部外者として初めて福島第一原発に入った現参議院議員青山繁晴氏の手記によるとこのような事が書かれている。ある67歳の作業員が若い作業員を指差して「あいつを見てくれよ。あいつは暴力団の手配でやってきたチンピラみたいな奴なんだ。ここで働いているうちに、あいつ、顔つきが変わってとても良くなったんだよ。」青山氏は彼のところに走って行って「あなたは暴力団の手配で来たんですか」と聞く。「いや、本当はあのじじいが知らねえだけです。俺が暴力団員です。組に言われて、あいつも、あの辺のじじいもみんな俺が手配したんです。でも俺はここにきて人生が変わったんだよ。」「高校中退してグレてグレて今じゃヤクザもんですよ。ところが監視をやりにここへ来たら、自分のために働いている奴がいねえんすよ。俺が割り当てた日当のことなんか誰も考えてない。福島とチェルノブイリは違う。放射能で死ぬ人間だけは出さないと言って、どいつもこいつも危ない目に合いながらクソ頑張ってる。だから俺の人生変わったんすよ。」といってわっと泣き出した(ぼくらの死生観 ワニブックスより参照)。

ちなみに朝日新聞の捏造記事は前に起こったセウォル号事件とのバランスをとる為という理由が有力である。

3 役所仕事は緊急時に適していない。再度の津波の襲来に備えて防御壁の提案を吉田所長は本社に対して具申していたが、建築許可が1年以上かかるとし認められなかった。仕方なしに吉田所長は土嚢で対処した。緊急事態に対し柔軟に対応できない東電の役所体質が伺える1例である。つまり東電本社はだれも責任を取りたがらないという事が伺える。大企業病の側面である。

4 東北電力の女川原発は同じBWRではあるが高台であることから難を逃れている。震災当時は住民の避難場所にもなったほどで地域の安全性の認識具合は雲泥の差があった。

5 吉田所長は普段から本社に文句ばっかり言っていたが執行役員である。そういう人が出世は出来ないものだが、それなりの説得力もまた認められていてのことだと推測したい。良心的で男気のある方だという認識だったが本編では佐藤浩市の方が目立っているのが実際どうなのかは解らない。

6 原子力委員会にプロはいない。専門性という意味である。名誉職は他でやって欲しい。

 原作者の門田隆将氏はノンフィクション作家として特に取材力・分析力に秀でた方であると思う。TVなどでの本人によるあまりの宣伝のうまさに思わず観てしまった。確かにエンドロールですぐに立ち上がる私が動けなかったにせよ以上の点が述べられていなかったのが違和感を感じるがまずは正解だと思う。原子力委員会や東電の官僚体質を批判したところで本論とは違うだろうから。事故後残った50人を世界は「Fukushima50」と呼び(逃げたのではなく50人を残した、50人が死んだら次の50人というように入れ替え制にした、事実は60人であったが)称賛した。しかしより日本人が世界で称賛されている事例でいえばサッカーの試合後のゴミ拾いの方がメジャーであろう。しかしこの事故で現場では自分の身の危険を無視し他人の為にだけ仕事をした人たちだけがそこにいたのだ。これは真実であり、日本人の国民性でもある。そのおかげで被爆して亡くなった方は公表と事実は桁が二つは違うとされるチェルノブイリと違ってゼロなのだ。ここが重要。

この映画は単純に国外で上映していただきたい。「半地下の家族」とは別の意味でメジャーになって欲しいと願うばかりである。

 長くなったので司馬遼太郎は次回。

 

 

つづく