これもう研究で明らかになってます

4年に1度あるかないかだ。

いえいえオリンピックではなく「責任者出せ!」ですよ(笑)。それが先週2件あったのだ。カスハラ(カスタマーハラスメント)がコロナのうっ憤で増えているという話は聞いていたがこのような身近で体験できるとはありがたいというかなんというか。気に入らなきゃ買わずに帰れば済む話だ。賛否はあるが、お客の定義はお金を払うか払わないかで決まるのが正解である。正解とは何かというと現代社会では裁判になったときに損害があったと認められるかどうかである。つまり法につじつまが合っているかに尽きるのだ。とはいえ心が傷ついたという訴訟なら実はめんどくさい。これが現代社会の現実であり限界である。気持ちが晴れないのはやはり解りますよ。でもその気持ちや心は自分で何とかしなきゃと僕は思います。他責にするのはいろんなものを実は失うものです。最も避けるべきは他責にする癖が身に付いてしまう事。僕はこの行動様式が心を壊す要因になっているのではないかなとも思っています。何より自立心を育みにくい。

さて本日の本題はストレスは意外と悪いものではないという話です。

全国高体連の「明日へのエールプロジェクト」のオンラインエール授業に陸上女子100Mハードルの寺田明日香さんが登場しました。様々な大会が中止になりそれを目標に選手たちはやってきました。質問コーナーで「モチベーションをどうやって維持するのか」という高校生の質問に対し寺田さんはこう答えます。

「モチベーションを維持できないことを悪い事だと思ってない?」

「モチベーションが下がっている中でも、栄養管理とか課題の克服とか、絶対に続けていかなくちゃいけない事ってあるよね?そういうことは継続性を持っておかないと感覚が戻らなくなる。だから大事なのはモチベーションが下がっている中でも『これはひとつ守っておこう』と大切にする事じゃないかな」

モチベーションが維持できないことは自然な事ですと。しかしそれを悪い事だと決めつけるのは人間の勝手な思考だと。今の自分にできる事をしっかりと決めてそれを実行すること。ポジティブに考えることこそが大切であると言い切った。僕は物凄く共感します。

共通して思うのが「チアダン」のモデルになった福井商「JETS」の「ウエルカム・ピンチ」である。ピンチはないよりあった方が成長につながるという教えだ。ピンチを凌ぐとパワーアップ出来るし、それに打ち勝とうと四苦八苦することこそ最も大切な学びの行為であると。

成長を信じてモチベーションの低下やストレスを利用するという行為は、人間が生きていく上での脳の活用の仕方のテクニックです。そうやって僕たち人間は1万年の間生きて来た。裸で洞窟で生活していたのをここまで変えられた要因はここにあるはずだ。それを、苦難を楽しめたら素晴らしいじゃないかと僕は常々言い聞かせています。

僕たちはストレスを悪いものと認識し過ぎで、かつ子供たちにもストレスは悪いものだと教え過ぎなのだ。そんな社会や教育は間違っていると思う。ストレスやネガティブな出来事こそ前に進むエネルギーに利用すべきなのだ。ストレスを薪とくべて心の炎を燃やそう!

LIGHT MY FIRE! COME ON STRESS!!

(なんでスペイン語じゃないんだ!?)

 

 

おしまい

僕はこう考える教育論その3

ここ何年も読んでいないが音楽雑誌「ロッキング・オン」は高校以来最もよく読んだ雑誌の一つである。「ロッキング・オン」は洋楽専門雑誌である。当時ネットも無かったので海外アーティストのコアな情報はここにしかなかったと言っていい。僕が考える邦楽と洋楽との違いで最も大きかったのは言葉をメロディーやリズムに乗せた時の美しさとかカッコよさ、歌詞の内容には雲泥の差があった。もう邦楽なんか幼稚すぎて聞いてられない程だった。現在ではそんな違いは全くない程、邦楽は進化し洋楽は陳腐になった。それはともかく双方に最も違和感を感じたのが音楽性ではなくインタビューの中身であったのだ。

とにかく文字数が多い。例を挙げると「今回~なのは~だったからなんだ。というのも~ということに導かれたと言っていい。しかも~は~も兼ねていた。何故なら当時の僕たちは~だったからね。そのような結果として~を手に入れたと言えるかもね。例えば~」みたいな洋楽アーティストのインタビューの答えはとにかく長くて論理的だった。ジミーペイジ、デヴィッド・ボウイ、トム・ヨークしかり、あのリアム・ギャラガーですらだ。日本のアーティストはもっと淡白で自己分析が出来ていない人が多かった気がする。向こうの音楽は論理的であった。洋楽のロックはラジカリズムと切り離せなかったのである。時に哲学者のようであった。

その原因がこの歳になってやっと解ったのである。問題はイギリスの幼少期の教育にある。例えば数学で例を示すと日本では数学のテストはA3の紙1枚にいくつか問題があって回答記入欄に答えを書くか4つのうちから選択するのが一般的だと思う。イギリスでは白紙の紙を問題数ごとに何枚か渡されそれに解き方を書いていき、そのプロセス(頭の中の考え方を図式化したもの)と答え両方で採点される方式である。つまり答えが合っていてもプロセスで理にかなっていなかったり、ミスがあると減点されるので100点は取りにくい。つまり考える力を養うことに重点が置かれている。論理的思考を身に着けるために教育があるという考え方だ。この為にあのリアム・ギャラガーですら論理的だったのだ。一方で日本はプロセスは過去問の暗記でよくて、そこは問われず最終解答だけが問われる。ただし、解き方を暗記しているので解答までが圧倒的に早いという利点がある。

しかし社会に出れば暗記が役に立つ頻度と思考が役に立つ頻度を考えればどうだろうか。争いが無くなる社会にするためにはどうするか等、世の中には最終解答がない問題ばかりといっていい。このような課題に直面した時、暗記教育はフリーズしがちです。とはいっても戦争をなくすというのは論理的に考えても難しいんですけどね。つまり日本の教育はテストで高得点を取るために存在しているといっていい。大学入試の為と置き換えても良く、韓国もそれに近いですね。しかしそれって教育の本質から逸れてるような気もします。柔軟な考え方が苦手な原因がここにあるのではないだろうか。

とはいえ、欧米も暗記教育をもっと増やしてもいいと思います。早いですから。日本は論理的思考を増やした方がいい。うつ病が増えてる原因はここにあるかも知れないと個人的には思っています。繊細な問題なので誰も言わないですが何十年後かにそんな論文がでて証明されるんじゃないかとも思っています。欧米式と日本式を足して2で割るくらいでいいんじゃないかと僕は思いますけどね。小さいお子さんをお持ちのご家庭にはぜひ「非認知能力」を育てるという観点で接してあげて欲しいなと思いますね。決められた常識なんてもっと疑っていいのだ。非認知能力!?それはまた今後書きたいと思います。

 

 

おしまい

補足・・・でも日本の数学のレベルはめちゃくちゃ高いです。

僕はこう考える教育論その2

 え~、いつも文章が長いと読む気がしないという声をたくさん頂いていることを思い出し短く行こうとは思います。

 数学といえば例えば微分積分など社会人になって使う事もないし3桁の掛け算を暗算で出来る人も正確で速いからという理由でスマホの電卓を使ってます。これって学校教育が役に立っていないじゃないかと思ってしまいますよね。でもそういう事ではないんです。整理します。

科目別  学習することの目的(意義)→ 理想と現実との相違

数学・・・物事を論理的に組み立て考える力を養う為。→ 公式を暗記しただけで応用力は身に付いていない。

国語・・・言葉の持つ表現力を駆使して相手に最高の形で伝えられるようにする為。→ 漢字や熟語をいくら覚えても豊かな表現力で使用できていない。

社会・・・過去に起こった事例をその背景と思惑を考察し将来に生かす為。間違えない為。→ 年表を覚えただけでは今後の人生の何の役にも立たない。

理科・・・実際に目の前で起こっている真実を突き止める為。→ 真理の探究を考えないと見えている事だけで判断してしまう。 

体育・・・この動きをしようと思えばこれが必要だという理屈を脳で思考する為。→ 健康管理ははたして十分なのだろうか。

道徳・・・人の幸せの本質について考える為。→ そもそも教科書の中身が正しいかすら解らない。

音楽・・・あらゆるイメージを膨らませる為。自由な表現と自己主張を学ぶ為。→ 音符が解っても実生活に役に立っていますか?

各科目の目的・意義のその先に何があるのかは解らない。しかし考えようとしなければその先は見えもしないだろう(しかし音楽は突き詰めたらMISIAになるに違いない笑)。

 自分でもそうですが社会人になっても人にモノを伝えることが下手だったり、真実を一発で理解できなかったり、こうなればまずいという状況でも打開策を打ち出せなかったり、とにかく残念な大人が多いことを感じます(出来ない言い訳だけは達者になるんですが)。言われたことは出来るがそれ以上のことは出来ない、思いつきもしない。思考停止の受け身でそういう人がもっと増える気がしていてかなりの危険を感じています。電化製品と同じ末路をIT産業も基幹産業と言われる自動車、製造業も悲惨な末路を辿るのはもはや必然の流れです。その根幹はこの国の受験制度に最大の問題があると言わざるを得ません。

 さらに勉強はいい大学に入るのが目的じゃなくて思考力や脳を鍛えるために勉強が必要でそれに対応した試験制度を導入すべきです。前にも書きましたがそれを実践している大学はもうすでにありますので、そういう大学を調べてわざわざ進学し、4年か6年か解りませんけれどもさらに専門知識と脳を鍛えて社会に役立つ人として巣立って頂きたい。偉そうに僕に言われずともそういうふうに考え進学している子供たちも徐々に増えてきているのも事実ですが、まだまだ少ないです。

 とはいえ勉強は楽しかったらいいのですがそうでなかった時に苦痛ではないでしょうか。そこで最も大事なのは継続する力。その1で触れた「根性論」にも繋がってきます。そもそもダイエットをすると決めたとして5Kg痩せるのが目的なのか5Kg痩せた体重を維持するのが目的なのかで手法もメンタルも違います。また物事の考え方に圧倒的な差があります。マイナス5Kgを維持しようとすれば、痩せるメニュー以上に「継続的に続けなくてはいけない自分ルールを守る必要」があります。これは好きな事なら問題ないんですが嫌いだったら苦行です。その1で述べたストレスを友とする方法で乗り切るのがベストですが、それでも苦痛な時は死んでも続けてやるという意思、気合、根性で乗り切る以外ありません。ということでスポーツ界で忌み嫌われている根性論、普通に必要です。そしてそれが出来ない大人は弱いです。鬱の増加はストレスの量ではなくてストレスを糧に出来ない人の量の増加です。

 だからこそ僕は小学校の時に強さを身に付けて中学高校に進んで欲しい、それだけが望みです。続きは教育論その3で。

 

おしまい

僕はこう考える教育論その1

 お客さんや友人のお子さんで心を病んでしまったり、その結果不登校になったり、休養を取らざるを得なくなったりとかというのをちょくちょく耳にします。僕らの小さい時と比べてやはり増えていて良くない傾向です。その原因とされているのがストレスであろうかと思います。そして編み出された(?)のが「褒めて伸ばす!」という手法。しかし海外の論文で驚くべき研究をした学者さんがいました。

 それは学力が平均的でほぼ成績が同等の子供たちをAグループとBグループに分けてAはとにかく褒めて伸ばすを徹底、Bにはストレスを掛け続けるスパルタ教育を施しました。そして試験をした結果、Aは大部分が平均点のちょっと上に位置しましたが、Bは超上と超下に2分化するという結果が出たんだといいます。Aはまあいいのかとも思いますがBには圧倒的な格差が生じて格差社会が問題視されている昨今、いい結果とは言えません(ちなみにAグループからは一番上のスーパーゾーンに達する子は一人もいませんでした)。そして学力だけでなくスポーツや音楽に対しても同様の実験が行われましたが結果はどのジャンルも同じような結果だというのには驚きです。

 そこでBについてなぜ格差が生まれるのかと詳しく解析されました。その結果ストレスに耐え切れなくて駄目になってしまった子達が下層部、上層部はストレスとうまく付き合った結果だという事が解ったのだそうです。なんでここまで無茶苦茶されるんだろう、なんでこんなに罵られなくちゃいけないんだとか思うけれども、これは自分にとって必要なストレスであり試練なんだと、これを乗り越えてこそ結果が出るんだから仕方がないと割り切って頑張った、このハードルを越えれば新しい世界が見えるだろうからこんなことでは屈してたまるか、という風にストレスを自分の成長の糧にした子と、出来なかった子の違いだそうです。

 僕たちはストレスは悪いものだと思い込んで来ましたし、社会でもそういう風に教育されています。自分もそういう風に考え教えて来たかも知れません。しかし人類といわず生物全てが地球上のあらゆる自然的ストレス、死ぬほどの暑い寒いあらゆる災害に耐え抜く為に変化・変態してきたものだと思うと進化論上ストレスこそ必要だったのだとすら思えます。ストレスは悪いもんじゃない。自分が壊れない程度のストレスはむしろ良いものだという認識、自分の成長にとって必要なものなんだと「脳で考えること」こそが重要だったのです。ストレスこそ友であると。

 そう考えればストレスとうまく付き合うというのは例えば社会人であったら飲みに行って会社や上司の愚痴を言い合ったり、休みの日に趣味に没頭したり、ゆったりとした自分だけの時間を作ったりというのは実はごまかしているだけではないだろうかと思えてきます。まやかしの世界に浸っているだけじゃないか。うまく付き合うということはストレスと向き合って自分を進化させること、自分にとってストレスこそが頑張れる元、エネルギーだと思い込む。脳でそのように考えること、それこそがストレスをコントロールする本当の意味ではないだろうかというふうに。つまりですね、日本では危険なワードとして忌み嫌われている「根性論」、これもあながち否定されるもんじゃないという事が言えます。非常に危険な話になってきそうな続きは教育論その2で(笑)。

 

おしまい

 

 

デュッセルドルフにて。

 インマーマン通りを歩いていくと随所に漢字の看板があり、赤提灯、居酒屋、串カツ屋、ラーメン屋などここは果たして異国なのかと疑ってしまう光景を目にする。ホテルニッコー。今は経営は直営ではないものの日本人スタッフも常駐、日本食レストランも当然ある。ここはれっきとした日本人街となっている。500以上の日本企業が進出し、約5000人の日本人が住むこの街はドイツはおろかヨーロッパ圏内でも特別な街である。当然、経済においても文化においても重要な場所として位置するのだろう。

 と、ここまで書いておいて私が現在この街を訪れている訳ではない。もちろんここも含めてヨーロッパ圏など行ったこともない。つい最近訪れた人から聞いた話を書きたい(笑)。

 この街に住む日本人が口をそろえて言うのは「子供を育てるのに本当に適している環境」ということらしい。この街に赴任する日本人は日系企業を含め日本の企業、なかにはイギリスからこの時期早々と撤退し拠点を移した企業も結構あるという情報もあるが、比較的若い夫妻が多いという。こちらで子供が生まれ、幼児期の育児を体験している中で異国ゆえの困難さもあることだろうが、全く逆らしい。どういうことかというと例えばベビーカーに子供を乗せて近所のスーパーまで買い出しに行く際にすれ違うデュッセルドルフに住むドイツ人または大人たちは老若男女関係なくほのぼのとした笑顔で微笑み返してくれる。例えばバスや電車に子供と一緒に乗っている際、もしも子供が急に泣き出したとしてもみんなニコニコし、それは老夫婦であろうが高校生のカップルらしき人達であろうが全く同じ反応だという。子供が泣くのはほほえましい事だという事で当たり前の文化という事なのだろう。

 一方、日本ではどうだろうか。公共の乗り物の中では子供が泣いたりしていると「なんだよ早く黙らせろよ」とか「公共の場で子供を黙らせるのは親の責任だろ」とか中には口に出して怒鳴る人もいるだろうが、口には出さずとも苦虫を噛み潰したような顔をしている人は多いと思う。実際、そのような場所で子供に泣かれて困った主婦の方もいるのではないでしょうか。私は困惑しながら子供をなだめようと必死の表情であやしている母親の姿をたくさん見てきた。周囲はストレスが溜まっているのだろうか子供に対する大らかさはそこにはない。公共の場で静かに目的地に向かう権利は「憲法で定められている基本的人権だ!」とでもいいかねない奴もなかにはいそうで恐ろしい。狂気。そこまでとは言わないがデュッセルドルフよりストレスが多いのは間違いがないだろう。もちろん全員がそうではないのが救いだが、この空気。なぜこんなになったのか。

 こうのような空気が生んでいるのではないだろうか。DV、虐待、いじめをはじめとする痛ましい特に子供に関する事件の数々。私に出来ることは無いのだろうか真剣に考えてみたい。

 なぜこんなことになっているのかというのは長くなるので別で語ることにする。ところで将棋は王(玉)を獲る、守るゲームである注1。私たちにとっての王とは何か。普通に考えると一番偉い人という事になるかも知れないが私はそうは思わない。王=子供たち=「本当に守らなければならないもの」だということを今の子供たちには小学校の時より授業で教えて、その子たちが大人になった時にもそれが最も大切な事として心に刻まれているようにすれば、殺伐とした空気を無くすことができるのではないかと考えるこの頃である。テストで高得点を獲る為の授業はほどほどにして「わたしたちは何者なのか?」という哲学では全くなくて、生物学であり、歴史学であり、数学であり、国語や地政学注2の基礎的な「私たちの土台を考える」という授業を早急に始めないといけない時代に来ているのだと予告しておこう。

 

おしまい。

 

注1   NARUTOの受け売りではないです(笑)。でも漫画でも諭しているのに困ったもんですね。

注2   他の教科の先生方ごめん。こういう事を書くから教師のお客様を失う事になる。悪意はないので今後ともよろしくお願い致します。